1980年代、バブル経済の絶頂期にいた日本人は、ある種の「飽食感」の中にいたといえるだろう。物質的な豊かさが極限に達し、もはやこれ以上求めるものがないと感じた時、人々の関心は観念的、あるいは理念的な方向へと向かっていった。それこそが日本における「ポストモダン」の正体であったのかもしれない。お腹がいっぱいになった後に訪れる、贅沢な退屈。それは、どこか「中二病」的な空想や無謬性に浸る、平穏で空虚な時間であったとも考えられる。
しかし、その後の現実は冷酷であった。バブル崩壊と入れ替わるように始まったグローバリゼーションの波は、韓国、台湾、香港といった近隣諸国の台頭を招き、やがて中国という巨大な存在が世界経済の主役へと躍り出た。日本は「ジャパン・パッシング」の荒波に揉まれ、かつて世界を席巻した半導体や自動車産業も、地政学的な制約の中でその勢いを削がれていったように見える。もはや「豊かさゆえの悩み」に浸る余裕はなく、日本は周辺国が豊かさを増していく傍らで、静かに、しかし確実に「置いてけぼり」を食らうジリ貧の状況へと追い込まれていったのではないだろうか。
特に、バブル崩壊後に社会人となった「就職氷河期世代」は、その厳しい時代の影響を最も直接的に受けることとなった。まともな会社の正社員に就くことさえままならず、不安定な雇用環境の中でキャリアの形成を阻まれた人々も少なくない。社会の構造変化による歪みを、一世代が過度に背負わされた側面があったといえるだろう。
これまで日本が、相対的な貧困化を実感しながらも決定的な破局を免れてきたのは、かつて築き上げた社会インフラや膨大な金融資産という「貯金」があったからだといえる。しかし今、その前提が揺らぎ始めている。エネルギーや食料の調達が危うくなり、グローバルサプライチェーンという命綱が寸断されるリスクが現実味を帯びてきた。
だが、ここで少し視点を変えてみる必要があるのかもしれない。
日本はグローバル経済の成熟フェーズにおいて、決して「美味しい思い」をしてきたわけではない。
グローバル経済の勝者はもちろん中国や新興国であり、金融とITという新領域で独占的地位を築いた米国であり、EUの名のもとに、内側に旧東側諸国という新興国を囲い込んでブロック経済を築いた欧州だ。経済のグローバル化の中で、うまく立ち回れずに、明らかにポジショニングに失敗した日本はおおむねスルーされた。
ということは、グローバリズムの恩恵に預かった国々は、これから様々な問題が現出して厳しい局面を迎えていく可能性が高い一方で、日本は比較的傷が浅くて済む可能性はもちろんあるだろう。
日本の中でも、グローバル経済の中でうまく立ち回ったクラスターの被る影響も大きいだろうから、パッシングされた日本で、前述のような構造的な貧乏くじを引き続けてきた世代にとっては、このシステムのクラッシュは、ある種の溜飲を下げる側面もあるはずだ。
これまでのパラダイムでは、「お金さえあれば何でもできる」「政府が社会保障で生涯面倒を見てくれるので、自分たちの世代は逃げ切れる」と信じて疑わなかった、いわゆる「勝ち組・逃げ切り世代」の論理が支配的であった。しかし、グローバル経済が終焉を迎えた後の新しい世界では、こうした既存の蓄えや公的な保証さえも、かつてのような絶対的な安心を担保しなくなる可能性がある。盤石だと思われていた層の立ち行かなくなる姿は、長く冷遇されてきた人々にとって、皮肉にも公平な社会への再編の始まりと感じられるのかもしれない。
もちろん、それはかつての「三丁目の夕日」のような高度成長への回帰を意味するものではないだろう。しかし、世界中がパニックに陥る中で、すでに厳しい時代を生き抜いてきた日本、とりわけ逆境に耐性の強い世代にとって、その衝撃は相対的に軽微であるという逆説的な強みが浮かび上がる可能性がある。
ここに来てようやく、私たちはあの中二病時代以来の「答え合わせ」ができるのかもしれない。村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で描き、村上春樹がそのシニカルな文体で距離を置いた、あの「どこか物足りない、白けた虚無感」。
タイパ(タイムパフォーマンス)やコスパ(コストパフォーマンス)という記号に還元され、お金がない中でいかに豊かに生きるかというテンプレート化・規格化された競争に参加し、リアリティ(現実の手触り感)を失っていた私たちの暮らしが、皮肉にも「生存の危機」という剥き出しの環境変化によって、生存本能が刺激されることで再び脈打ち始める可能性がある。
退屈な人生や、くだらない人生すごろく、マウント合戦がすべてチャラになって、ひりひりする「生きている実感」というやつなのかもしれない。
平安時代の律令制が崩れ、戦国時代の下剋上を経て江戸時代の封建制へと移り変わったように、権威や価値の源泉が劇的にローカライズされる過程。かつての貴族のような「ひ弱なエリート」よりも、地元に密着し、確かな生活力と生命力を備えたマイルドヤンキーといわれるクラスターの方が、分断された世界をよりたくましく生き抜いていく可能性。
これまで今のシステムの中で希望を見出せなかった人たちにとって、これは一発逆転の芽が開く「希望の物語」になり得るのではないだろうか。
農家のせがれから天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、マイルドヤンキー層からもう一度現れるかもしれないというワクワクする下剋上ストーリー。これこそジャパン・ドリームなのかもしれない。
中二病をこじらせた長い停滞の季節を終え、私たちは今、過酷ではあるけれど嘘のない、真にリアルな世界へと足を踏み入れようとしているのかもしれない。
Naoki Sakai