かつて1980年代を中心に、日本の言論・文化シーンを席巻した「ポストモダン」という潮流。それは単なる流行語ではなく、戦後日本が信じてきた「右肩上がりの近代」という大きな物語が終わり、価値観が断片化していく過程を象徴する現象だった。
その後、資本主義と民主主義という基盤パッケージはさらに強化され、40年の延長戦に突入し、世界中のひと・もの・かねがこの壮大な物語に飲み込まれていった。
ところが、トランプ大統領の登場やウクライナ・イラン情勢に象徴されるように、ついにそのパッケージの高度化のスピードが止まり、あるいは逆回転を始めている。
今、「本当のポストモダン」あるいは「ポスト・ポストモダン」の時代を迎えているといってもよい。
こうした中で、我々に物質的豊かさと精神的なよりどころを与えてくれていた資本主義と民主主義というパラダイムからどのように超克することができるのか、真剣に考えるときに来ているのかもしれない。
「大きな物語」の終焉とバブル文化の融合
ポストモダンを理解する上で欠かせないキーワードは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが提唱した「大きな物語の終焉」だ。
近代(モダン)とは、理性の進歩や科学の発展、あるいは国家の繁栄といった「一つの正解」に向かって全員が突き進む時代だった。
しかし、日本では高度経済成長を遂げ、物質的な豊かさを手に入れた1980年代、人々はもはや一つの目標を共有する必要性を感じなくなった。
これに呼応するように、「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」と呼ばれる哲学ブームが起こり、浅田彰氏や中沢新一氏といった若手学者がアイドル的な人気を博した。難しい哲学用語をファッショナブルに消費するこの現象自体が、非常にポストモダン的な光景であったといえるかもしれない。
消費社会における「記号」の戯れ
ポストモダンのもう一つの特徴は、物事の本質(オリジナリティ)よりも、表面的なイメージや「記号」の組み合わせを重視する点にある。1980年代の日本の消費文化は、まさにその実験場だった。
例えば、建築やファッションにおいても、過去の様々な様式を脈絡なく引用し、パッチワークのように組み合わせる手法(コラージュ)が多用した。
オリジナルの意味を剥ぎ取り、ゲーム感覚で新しい組み合わせを楽しむ。こうした「軽やかさ」や「シニカルな態度」が、当時の若者たちの美徳とされた可能性がある。
かつて西武百貨店が掲げた「おいしい生活」というキャッチコピーは、イデオロギーや国家といった重苦しい価値観から解放され、個人の感覚的な消費に価値を見出したポストモダン的な感性を象徴しているとも言えるだろうだろう。
超高度資本主義の恩恵とグローバリズムの黄昏
1980年代に叫ばれた「高度資本主義」は、今や「超高度資本主義」へと進化を遂げた。ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に飛び回り、世界が巨大な共通市場として再編された結果、圧倒的なコストダウンによるディスインフレが進行したといえる。
日本では名目所得が停滞した時期もありましたが、ユニクロやサイゼリヤに代表される高品質・低価格なサービス、そしてスマートフォンの無料コンテンツの普及により、私たちは劇的な価格低下の恩恵を享受してきた。
経済成長のスピードが鈍化しても、生活の質自体は大きく損なわれず、物質的な豊かさは維持されてきたと考えられる。
しかし、この安定した「安価な世界」は、グローバルサプライチェーンという精緻かつ脆弱な均衡の上に成り立っていたのかもしれない。
原理の揺らぎと、新たな「生きる拠り所」の模索
現在、中国を筆頭とする新興国の台頭や米国経済の行き詰まりにより、これまで世界を支えてきた資本主義と民主主義という根本的な仕組みが大きく揺らいでいる。
ウクライナ情勢から中東の緊張、そして米国のモンロー主義(孤立主義)的な傾向は、その不協和音の象徴といえるのではないだろうか。
インフレの加速とサプライチェーンの寸断は、私たちが当たり前のように享受してきた「安全で安価な暮らし」を脅かし、社会や政治の不安定化を招いている。
資本主義がもたらした物質的豊かさと、民主主義の精神的支柱であった「自由・博愛・正義・公正」といった価値観がかつてない危機に瀕している今、ポストモダンという視点から再び議論を深める必要があるのかもしれない。
一つの絶対的な正解が消滅した後に、私たちはどのような新しい物語を紡ぎ、何を生きる拠り所としていくべきなのか。
私たちは、今こそ「ポストモダン」を真剣に考えるときにきているのかもしれない。
Naoki Sakai