「大きな物語」のクラッシュについて考えてみたい。
1979年、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは『ポスト・モダンCondition』で、理性の進歩や国家の繁栄、自由民主主義の勝利といった壮大な物語は終焉を迎えたと予言した。
しかし、その後の歴史は、リオタールの予言を裏切るかのように、このパッケージを肥大化させ、進化させ、深化させていった。
ソ連の崩壊(1991年)を経て、1992年にフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で自由民主主義と資本主義の最終的な勝利を宣言した時、この「大きな物語」は、かつての宿敵であった中国や旧ソ連をもその巨大なシステムに巻き込み、完成したかに見えた。
我々は、世界規模で共通化された市場と、圧倒的なコストダウンによるディスインフレの恩恵を享受し続けた。
日本では、名目所得は停滞したかもしれないけれど、ユニクロやサイゼリヤに代表される高品質・低価格なサービス、そしてスマートフォンの無料コンテンツの普及によって、物質的な豊かさの水準は大きく損なわれなかった。「終わらない夏休み」が続いているかのような錯覚の中で、我々はその安価で安全な世界に身を委ねていた。
こうした時代背景の中で、村上春樹の初期の作風、特に「大きな物語」から意図的に距離を置く「デタッチメント」の態度は、非常にポストモダン的であったといえるのかもしれない。
例えば『ダンス・ダンス・ダンス』では、高度資本主義のメタファーとしての「いるかホテル」を舞台に、シニカルな眼差しでそのシステムを描いている。しかし、そうしたシニカルさや、近代化への引っかかり、あるいは前世代へのノスタルジーといった要素は、すっかり現代の世代からはそげ落ちてしまった。
高度資本主義は、IT革命と金融の国際化という強力なブーストによって、さらに加速し、「超高度資本主義」に変化を遂げた。世界中のひと・もの・かねが共通の市場に飲み込まれていった。
村上春樹が「トレンディ」な存在でなくなった今、まさにリオタールが予言した「大きな物語」が終わろうとしているのは、これもまた歴史の皮肉といえるのかもしれない。
そして今、我々が立っている場所は、フクヤマが「歴史の終わり」と呼んだ場所ではなく、リオタールが予言した「大きな物語の終焉」というポストモダン的な状況が、より複雑で危機的な形で進行している場所だ。
地理的的に市場が拡張し、そして人口が激増し成長がさらに加速化するというサイクルが限界に達し、コロナショック、ウクライナ戦争、そしてトランプ大統領の破壊行動が、積み上げられた均衡を一気にクラッシュさせた。
インフレの進行とサプライチェーンの寸断によって、僕たちが当たり前のように享受してきた「安価で安全な暮らし」が崩れ去ろうとしている。
我々は、今こそ、「ポストモダン」あるいは「ポスト・ポストモダン」を真剣に考えるときにきているのかもしれない。
一つの絶対的な正解が消滅した後に、僕たちはどのような新しい物語を紡ぎ、何を生きる拠り所としていくべきなのか。
それは、かつてのような「大きな物語」ではないかもしれない。もっと個人的で、もっと断片的な、小さな物語の集まりかもしれない。
でも、それが、我々がこの混乱した世界を生きていくための、唯一の道なのかもしれない。
Naoki Sakai